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聖書には2つの裁きが出てきます。救いを受けなかった罪人の裁きと義人の裁き...。ところが、多くの人はこの裁きを同じものと思っているようです。まず、コリントの手紙Uの5章10節の御言葉とヘブル人の手紙9章27節の御言葉を読みます。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」(コリントU5:10)
「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」(ヘブル9:27)
コリントUのこの御言葉は、救われた人がイエスの前に立ったとき、「神から賞を得ることができるのか、恥ずかしい目に会うのか」「冠を受けるのか、受けられないのか」についての裁きを語っています。その反面、へブル人の手紙の方は、「天国へ行くのか、地獄へ落ちるのか」についての裁きを語っています。
聖書には、このように裁きが2つに分かれています。このような裁きに関する話をしながら、この2つの部分が混同しないように区分をしようと思います。多くの人はこのような裁きについて話をすると、「あなた、神なの?救われたとか救われてないとか、どうして分かるわけ?」と言います。
「救われましたか?」
「救われたと言ってるのに、信じないわけ?救われたと言ってるんだから、救われたんだと思えばいいでしょう。」
聖書的に見て、明らかに救われていないのに、本人は救われたと考えています。そのまま放って置けばいいかもしれませんが、救われていると思っていたのに地獄へ行ったら、もちろん私が熱い火の中に入れられるわけではありませんが、かわいそうではありませんか。もしかしたら、この文を読んでいる人の中にもいらっしゃるかもしれません。
旧約聖書で神は、動物と昆虫と魚と鳥の中で、清いものと清くないものを区別する方法を教えています。それで、清い鳥を食べることができ、清くない鳥は食べては触ることさえできないようになってます。
皆さんは、「清い動物だとか清くないとかは、神が決めることで、人間がどうして知ることができますか?」と思うかも知れませんが、神は「こういうのは汚れた動物で、こういうのは清い動物だ。こういうのは汚れた魚で、こういうのは清い魚だ。だから、食べても良い。」と神だけがご存知の知識を御言葉で詳しく教えています。それなら、人間が知ることができますか、できませんか?
では、牛乳風呂できれいにして、美容院でパーマをした犬は、神がご覧になったときに清い動物ですか、汚れた動物ですか?
「あなたは、知ってるの?」
はい。初めはわたしも知らなかったのですが、神は私に汚れた動物だと教えて下さいました。聖書のどこに書かれているかですか?旧約のレビ記11章に「こういうのは汚れた動物だ」と書かれているために、犬は汚れた動物に属します。それでは、皆さんがよく食べる豚はどうですか?汚れた動物です。
「そうでしょうね。汚いところが好きな豚が清い動物になれるわけがない。」
そではありません。豚が汚れた動物に属するのは、他に理由があります。なぜ、汚れた動物なのかわかりますか?人は、神の御言葉がわからなければ、
「豚は汚れているでしょう」
「なぜ、汚れた動物ですか?」
「汚いところで住んでいるから。」
と言うかもしれませんが間違いです。それは、自分の考えを当てはめているだけです。それでは、かわいいうさぎは清い動物ですか、汚れた動物ですか。汚れた動物です。
「ほお、なかなか実力あるねえ。どうやって汚れているか清いかわかったの?」
そのように思いますか?わたしに実力があるからでなく、清いのはどういう動物で、汚れた動物はどういうものか、御言葉の中から知ることができるからです。それでは、やぎはどうですか。清い動物です。牛はどうですか?清い動物です。うなぎはどうですか?汚れています。
「どうして、あなたが汚れているとか言えるの?」
ウシガエルは魚を食べますか?
神の御言葉にそれは汚れていると書かれているからです。「うなぎは汚れている」と書いてあるのではありませんが、このようなものは汚れているというふうに言われていて、うなぎは汚れているのです。それでは、コイはどうですか?清いです。暇つぶしに食べるイカはどうですか?汚れています。
次に、昆虫の中でちょうちょはどうですか?汚れています。それは、触っても汚れていて食べることもできません。こおろぎはどうでしょうか?汚れていますか、清いですか?わからりませんか?こおろぎは清い昆虫です。それは、食べても良いのです。どうやって食べるかですか?どちらにしても神が清いと言われたので、食べてもいいのです。こおろぎは泣き声がきれいなだけであって、食べるものではないですか?でも、それは清い昆虫です。うまおい虫やバッタも清い昆虫です。
動物の中で反芻しひづめが割れているものは清い動物で、ひづめも割れていないし反芻もしないのなら汚れた動物で、二つのうち一つでも欠けていたらそれは汚れているのです。魚の中では、ひれやうろこがあるものは清いのですが、ひれやうろこがないものは汚れていると記録されています。それで、私が清いとか汚れているとか区別をすることができるのです。
救われた人と救われていない人もはっきり違います。
「え?じゃあ、救われた人は額から光でも出るとでも言うの?」
そういうことではありません。救われた人はまず第一に、心が罪から開放されて自由があります。
「ずいぶん漠然とした表現ですね。もう少し詳しく話して下さい。」
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 (ヘブル9:13、14)
キリストの血によって良心がきよめられて開放された人、「はい。主よ。私は義人です。」とキリストの義、神の義を中心として、はっきり言える人が罪から開放された人です。
「なるほど。それなら「私は罪人です」と言う人は救われた人ではないということですね?」
はい。そうです。
「でも、心には罪があるけど「義人だ」と言っている人は、どうやって見分けますか?」
それも、区別する方法があります。
神が、清い動物と汚れた動物を区別する方法を教えて下さったように、救われた人とそうでない人を聖書でははっきりと分けています。本来は神だけがご存知のことですが、神が御言葉を通して私たちに教えて下さっているので、聖書を見て知ることができます。御言葉に照らし合わせてみたときに救われてはいないのですが、罪人だと言いながら信じた日に救われたのだと言うので、私が残念に思って「あなたは、救われてません。」と言うのです。神は御言葉を通して「ああ、こういう人が救われた人なんだなあ。」とわかるようにされました。
マタイの25章に出てくる10人の娘に関する譬え話を考えて見ましょう。5人の娘は花婿に会って婚礼の祝宴の戸の中に入れたのに、残りの5人はなぜ入れなかったのですか?その理由は油を準備していなかったからです。
「ああ、それなら、心に聖霊を受けた人と受けていない人の差ですね。」
そうです。
「教会に何年通ったかが重要なのではなく、聖霊を受けたのか受けていないのかによって分けるのですね。」
はい。そうです。ある牧師や伝道師たちが、「あなたは新しく生まれましたか?」と聞きます。そのとき、「はい」と返事をしても、「しかし、聖書に照らし合わせて見たときに新しく生まれていないようです。」と言われるかもしれません。
どのようにパンダはpredetorsから自分自身を守るん。
そうしたら、自分は新しく生まれたと思っていても、そうではないと言われたのなら、聖書には「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。」(コリントU 13:5 )とあるように、この人は、私のたましいのためにこのようなことを言っているのだなあと、感謝の心で受け取り、「なぜ、新しく生まれていないと言うのですか?教えて下さい。」と言う人は神の恵みを受けられます。
そして新しく生まれなければ、罪の赦しの恵みも受けることはできません。でも、相手のたましいを心配してそのように言った人に「何でそんなこと言うんですか!新しく生まれたと言っているでしょう。」と言う人は、神に対してかたくなな人です。恵みを受ける心の状態ではないのです。その人は神から恵みを受ける資格はありません。
繰り返しますが、聖書には二種類の裁きがあります。ある日、イエスが
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」(マタイ7章24-27)
と言われました。ここで雨や風は裁きを意味します。ここでの裁きは土台に対する裁きです。材料が何であるかではなく、「砂の上に建てたのか、岩の上に建てたのか」です。砂の上に家を建てた人は倒れてしまい、その倒れ方はひどいというのです。しかし、岩の上に家を建てた人はその土台がしっかりしているので、裁きの日に倒れないのです。イエスが言われている土台に関する裁きは、まさに救いを受けているのかどうかを裁かれることを意味しています。
コリントへの手紙Tの3章には、神が家の土台ではなく、建物自体を裁かれる場面が出てきます。ある人は、金と銀と宝石で家を建て、ある人は木、草、わらで家を建てます。ところが、神が今回は水ではなく火で裁かれます。火で裁かれたとき、木や草やわらで家を建てたなら、みな焼けてしまい何も残らないでしょう。しかし、金や銀や宝石で造った家は、残るのです。
神は家を二度裁かれますが、1度は水で審判します。「よし、土台が丈夫だ。合格。」その次には、火で審判して、何も焼けずにそのまま残ったら、「わたしの良いしもべだ。」とほめてくださいます。
もし、その土台の審判を受けたとき、ガタガタと崩れてしまったら、その家が金や銀や宝石でいくら造られていても意味がありません。みな崩れてしまいます。だから、土台の審判に合格し、その次に賞賛(報い)についての審判を受け合格したときにようやく、何の恥もなく美しい人として神の前に立つことができるのです。
ある人が土でプランターを作って一度焼いたのですが、弱くてよく割れてしまいます。それで、「割れにくいプランターを作れないものか」と研究をした結果、コンクリートを開発しました。石灰石と石こうと粘土を混ぜて、コンクリートのプランターを作りました。でも、このコンクリートはいくら押さえつけても割れにくいという長所はあっても、引っ張る力には弱いのです。それで、強くて良いのですが、コンクリートのプランターも割れてしまうのです。
「何とかして、補強することはできないか。」1849年にフランスのある人が、「そうだ。それならこのこのコンクリートのプランターの中に針金を入れてみよう。」と針金入りのコンクリートのプランターを作ったら、丈夫だというのです。それで、鉄筋コンクリートで家を建てるととても丈夫な理由は、鉄筋が引っ張る力に強いからです。
鉄筋は押す力には弱いですが、引っ張る力には強い半面、コンクリートは押す力に対しては強いですが、引っ張る力には弱いので、鉄筋とコンクリートを一緒に入れれば引いても押しても強いので、家を建てるときによく使われるのです。(韓国では鉄筋とコンクリートで家を建てる)
どこに化石を掘るために子供を取ることができます
このように、神の目に美しい人は、まず土台が岩の上に建てられている人で、その次に金と銀と宝石のような生き方でなければならないのです。
それで、神は私たちを裁かれるときに2度裁かれますが、まず、救いの確信があるのかないのか裁かれます。その救いの確信は、私がどんなに熱心に主に仕えたかではなく、信仰によって心のすべての罪が清められたのかという次元の話です。例えば、十字架の片方の強盗は何もしていないのにパラダイスへ行くことができました。救いの確信を審判する土台の審判で合格することができたのは、救いは行いによって得られるのではないからです。
では、救いを受けたらあとは好きなように生きたら美しい聖徒になれますか?救われたと言って好きなように生きるなら、土台の審判には合格して天国へ行けますが、報いの審判では何も受ける報いはないので、とても低い位置で恥ずかしい救いを受けるというのです。それで、救いの確信と神に対する信仰の歩みの2つを兼ね備えたとき、神が見て美しい人なのです。
話を続けます。神が罪悪に満ちたソドムを滅ぼすことにしました。滅ぼす前に2人の御使いを送り、その町がどれほど邪悪なのか見に来ましたが、彼らは本当に邪悪でした。人間は堕落すると性的に乱れると言われています。性的に乱れると同性愛者が多く生じると言います。最近の時代も性的に乱れ、同性愛者が多く、エイズのような疾病が広がっています。多分、今の時代よりもソドムがもっと堕落していたのかもしれません。
神がそのソドムの町を滅ぼす前に、アブラハムに「アブラハムよ。私はおまえには本当のことを話そう。ソドムの町の堕落があまりにもひどいので滅ぼそうと思う。」と言うので、アブラハムが「義人と罪人を一緒に滅ぼすのは正しいことではありません。それは、神様らしくないお考えです。どうして義人を罪人と一緒に滅ぼされようとされますか?もし、ソドムの町に義人が50人いたら赦していただけますか?」と聞きました。
そのとき神は、「もしソドムで、わたしが50人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、あの町全部を赦そう。」と答えると、アブラハムはその数を減らしながら、10人の正しい人がいたらその町を滅ぼすまいという神の御言葉を聞くことになりました。
アブラハムは、「10人はいるだろう」と思ったのですが、その町には義人が10人いませんでした。それでそのソドムの町は火と硫黄で滅ぼされました。そのとき、神がアブラハムを覚えておられてそのソドムの町にいた義人を町から出させました。誰が義人でしたか?ロトが義人でした。
神はソドムの町を滅ぼされるとき、主のために熱心に生きる人を探したのではありません。そこで、義人を探しました。神は裁きの前に、この人は義人なのか罪人なのかを調べて、義人をそこから救われるということです。ロトは義人だったために神の裁きが臨むそのソドムの町から逃げ出すことができました。義人はその裁きには会わないということです。
「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」 (ヘブル9:27)
上の御言葉にある「さばき」は、義人と罪人を分けるさばきです。神がこの世を裁かれるときに、義人と罪人を分けると言われました。それで、義人は永遠のいのちを、罪人は永遠の刑罰に会うのです。マタイの25章を見ると、
「人の子が、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき...、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は羊飼いが羊とやぎを分けるように、彼らをより分け...。」
という御言葉がありますが、まるで羊とやぎを分けるように義人と罪人を分けるのです。義人は右側に、罪人は左側に分けるのです。それで、義人たちは永遠のいのちに入り、罪人たちは永遠の刑罰に入るのです。それがまさに神の1番目の裁きです。
そして、義人たちを皆集めておいて「おまえは救われてからどのように生きたのか。」とその行いに対する報いの裁きをされるのです。それでパウロのような人は、栄冠をたくさん受けるだろうし、そうでない人は栄冠を受けられないのです。ところが、多くの人はこの2つの裁きを混同しています。私がある執事の人と信仰相談をしたことがあります。
「執事さんは、主が再臨されるときに引き上げられるという確信がありますか?」と聞くと、「あるときは、引き上げられるようでいて、あるときは引き上げられないような気がします。」と答えました。それで私が、「それがどういうときなのか私が当ててみましょうか。引き上げられると思うときは、教会にも熱心に行って、十分の一の献金もしっかり出して、奉仕もして、早天祈祷会にも行くなど、何かを熱心にしている時で、家に大変なことが起きたりして教会へあまり行けずに、献金もできないときには、引き上げられないようなのではありませんか?」と言うと、「えっ?!どうしてわかったのですか?」と言うのです。
では、この人は何に縛られているのでしょうか。自分の行いに縛られているのです。自分が献金もたくさんして奉仕もたくさんするなど、何かをたくさんしたときは「私は引き上げられる」と思うのですが、それは間違っています。そのときは、「引き上げられる」と思うべきではなく「栄冠を受ける」と思うべきです。熱心に主に仕えたときには、その仕えた行いに従って天で報いをたくさん受けるのです。
ところが、主に熱心に仕えて天で報いをたくさん受けることはできますが、「罪人か義人か」の救いの裁きで、「主よ!この世のどこに義人がいると言うのですか。私は罪人です。」と言って、主から「それならおまえは左に立ちなさい。」と言われるのなら何の意味がありますか。左に立った人には報いを受ける資格すらありません。一次の試験で落ちてしまったからです。
私の教会に、運転免許はまだないのですが,運転が上手な兄弟がいます。それで、「何で免許がないのか」と聞くと、「運転はできるのですが、頭が悪くて筆記試験でいつも落ちるのです。」と言いました。でも、免許を取ろうと試験を受けてみるのですが、筆記試験でいつも不合格になるのです。でも、運転は上手です。
このときに、運転の技術が筆記試験の合否に何か関わりがありますか?ありません。資格はないのです。多くの人の信仰生活がそうなのです。徹夜祈祷、早天祈祷などは一生懸命します。そのぐらいの熱心さがあれば神の前に立って報いの審判を受けるなら、皆、頭に栄冠を1つずつ受けるでしょう。
残念なことは、そのたましいが罪の赦しを受けて義人になったという確信がないので、報いの審判を受ける前に左側に置かれて地獄へ落ちるのです。地獄へ落ちるのに報いが何の意味がありますか。仮に、栄冠を受けられたとしても、栄冠を受けて地獄へ行きますか?自慢の冠、朽ちない冠、栄光の冠、とにかく冠という冠を全部かぶって地獄へ行き、熱い熱いと飛び跳ねるなら、何の意味があるのかということです。
皆さん、何かを熱心にしたら、「ああ、栄冠を受けられるなあ。」と思うべきなのです。私の言っていることが間違っていますか?パウロが「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したので、今からは天国が私のために用意されているだけです。」とは言いませんでした。彼は、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したので、今からは義の栄冠が私のために用意されているだけです。」と言いました。
残念ながら、多くの人たちが報いを受けることのできる行いにだけ心を注ぎ、そのたましいが罪の赦しを受けて地獄の裁きから逃れる部分については、重要に思わないのです。この文を読んでいるあなたは、ほんのわずかな罪も残さずに、罪の赦しを受けて地獄の裁きから逃れられましたか?
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